【物神二元論】
―リィディ・ラハタナ著
この世界に存在するあらゆる物質、物体は「オード」と「エアン」によって構成されている。「オード」とは「形あるもの」を意味し、物理的世界においての実体をさす。主に肉体や形骸などがこれにあたり、「魂を入れる器」と表現されることもある。また「エアン」とは「目に見えないもの」を意味し、精神的世界においての実体をさす。魂や霊体などがこれにあたり、肉体を動かすための自我や意思をつかさどる本質と言われている。これらの名称は聖書の「天地創造」に描かれているものを引用している。
『メルノティはオードを手に取り、途方もない時間をかけて世界を形作った。次にメルノティは途方もない時間をかけて世界のすべてをエアンに浸し、生命を吹き込んだ』
『メルノティは世界のすべてを治めつかさどる存在として神をつくることにした。オードを手に取り人間に似せた形を2つつくり、エアンにた
っぷりと浸し永遠の命と大いなる力を与えた。メルノティはその2つに「ソトル」と「カーサリ」という名を授けた』
『ソトルとカーサリにとって、広い世界と多くの生命は手に余った。そこでメルノティがしたことをまねて他の神々をつくることにした。2人で手分けしてオードで形をつくりエアンに浸した。メルノティのつくった自分たちに比べると不格好で不完全であったが、とにかくたくさんつくった。』
メルナ教 聖書「天地創造」より
聖書によれば「オード」「エアン」は名称こそたびたび登場するが、扱いとしては非常に概念的でありそのもの自体が何であるかにはほとんど言及されていない。判明していることは、これに触れた者は世界をつくった創造主メルノティと、それをまねて他の神々をつくったソトル神とカーサリ神しかいない。古代語で「目に見えないもの」を意味する「エアン」は確かに少なくとも我々人類には見えないが、創造主と双神には創造の材料に扱えるほど充分に見えていると読み取れる。そして、聖書の記述から「オード」はどうやら形をつくるのに適した素材、泥やパン生地のようなものではないだろうか。一方「エアン」は「形作ったオードを浸す」という記述から液状のものと考えられる。そして最も注目したいのが、ソトル神とカーサリ神をつくる際「たっぷりのエアンに浸して永遠の命と大いなる力を与えた」という箇所である。オードだけでつくられた器としての肉体に、エアンに浸して本質を宿す。本質とは生命であり力の源なのである。
「エアン」は一般に言う(自然魔法学的見地における)内在魔力(MP)と同一視されることが多いが厳密には異なる。私がよく用いる例で説明するが、魔法使いは自分の体内に持つ魔力(MP)を用いて魔法を行う。するとその分だけ魔法使いが持っている魔力(MP)が減少するが、エアン(本質)は減らない。魔法使いが内在魔力を使い切ってしまうとそれ以上魔法が使えなくなってしまう。しかし、その時点でもエアン(本質)は減っていない。エアンはその者の本質なのだから、内在魔力と同様に減ってしまったら、魔法を使えなくなった時点で肉体の中の本質が消滅、すなわち死んでしまうことになってしまうのだ。以上のことより、生物はオードの肉体にエアンの本質が宿っており、その生物が持つ魔力はどちらかと言えば肉体の方に属しエアンとは直接の結びつきはないと理解していただきたい。
この世界は創造主メルノティがすべてオードで形作った。オードでできた山や海、オードでできた木、生き物、人間。そしてそのすべてをエアンに浸すことで、山は山になり海は海になり、木は木、生き物は生き物、そして人間は人間になったのだ。これら聖書に書かれている通り、世界創造の材料となった大量のオードとエアンは当然ながらこの世界ができる前から創造主メルノティが手に持っていたものである。すなわち「オード」と「エアン」こそがこの世界の、そしてこの世界を生きるものすべての根源となっているのだ。